口明塚

西暦600年頃(推古天皇の御代)作られたものと推定される。埋葬者は特定できないがその当時の有力者の古墳であるともいわれる。川西医院の上方にある小山が口明塚である。その後方の段丘と重なって長く引く部分は同土堤である。径15m内外で、最も高い部分で3mほどあり円墳である。
 現在は塩野神社で管理されている。

塩吹池

かつては神社の手洗い池、やがて拡張され500坪ほどの池になる。江戸時代初中期の元禄15年(1702)現在の大きさに拡大する。この池の水は、現在沢山池や湯川の水を舞田地区から通水して利用しているが、かつては川西越戸地区から浦野川の水を導入し山際に用水路を作り塩吹池に導水した。池の周辺から塩が出ていたことが名前の由来。稀少植物多く保護活動をしている。

加古池

何万年か前に、この池の近くを流れていた湯川が、大道刈り地籍の大規模地滑りまたは大雨による土石流の発生が原因で、流れがせき止められ加古池あたりに沼ができたと考えられる。

この沼が江戸期に改良され「加古池」になった。現在はこの池の蓮の花に魅せられ訪れる人が多く、かつて蓮根は当時の人々にとっては貴重な食材であった。

屋代源吾の五輪塔

天文17年(1548)2月14日武田軍と村上軍の「上田原の戦い」の時、五里久保でも戦いがあった。その時戦死した村上軍の臣、屋代源吾の五輪塔(供養塔)だと伝わっている。大正末期~昭和初期頃までは保野字青木にあったが、破損・盗難を恐れ現在地に移設した。高さが130cmもあり、大変立派な造りで5個の部材がすべて揃って残っている。
なお、戦いの年月が天文16年 (1547)8月の説もある。

願海和尚揮毫の道祖神

願海和尚は文政6年(1823)高崎に生まれ、比叡山延暦寺の天台宗の名僧である。安政4年(1857)頃塩田地区では大干ばつに見舞われ、手塚村では井戸水が出なくなり困りはて、比叡山にご祈祷をお願いしたところ願海和尚に取り次いでいただき、雨乞いのご祈祷をしたところ井戸の水が再び湧き出たといわれている。その後も手塚村とは交流があり、この「道祖神」の書もこの時にお願いして書いていただいたものと考えられる。

民話 原理兵衛

江戸時代の初めの頃、原理兵衛という広い土地を持ち酒造業を営む大金持ちが保野村におりました。信心深い理兵衛は日本中の一万寺をお参りして家に帰り「鐘のつき方がわからなかった」というとおかみさんが湯釜を火箸でついて見せました。すると、なんと大判小判がザクザクと。そのお金で理兵衛はまた沢山の良いことをしたそうです。

【原理兵衛の功績】
前山寺、林法院、塩野神社
丸子岩谷堂等への多大な寄進や再建・下池の造設等